2015/11/10 更新
この時期は箱根駅伝出場は夢のまた夢の時代である。スポーツ推薦入試制度で入学できる人数もごく限られ、10名で走る箱根駅伝のメンバーを揃えるのは厳しい状況になってしまった。特に1986(昭和61)年度の第63回大会から日本テレビによる完全生中継が行われるようになったことから、スポーツを大学の広報戦略の一環としてとらえ、駅伝を強化する大学が順位を上げていた時代とも重なり、本学は他大学に対して効果的な強化策を打ち出せず、なす術がない状況であった。わずかなスポーツ推薦選手と、実績のない一般入学組で臨む箱根駅伝予選会は惨敗を繰り返した。第70回記念大会の出場を次点で逃した本学は1995(平成7)年度には予選会順位が21位と20位を下回り、翌年度には23位と歴代最低を記録した。1999(平成11)年度には制限時間内完走者が9名に留まり、順位がつかなかった。これは初めての結果である。なお、総合順位が再び10位台に戻ったのは2001(平成13)年度(15位)である。この頃のトピックは1998(平成10)年度に日本インカレ10000m4位、箱根駅伝予選会でも15位となり、翌年度の陸上競技専門誌では箱根駅伝予選会の日本人1位候補にも挙げられた沖野剛久である。予選会20位台に低迷する本学の中で唯一本大会でも通用、活躍すると讃えられた選手である。4年時にはアキレス腱の故障に悩まされ、それは実業団の中国電力に入社してもしばらく続いたが、その後復活を遂げ、青梅マラソン優勝や北京五輪選考会となった2008(平成20)年のびわ湖毎日マラソンでも力走した。
関東インカレでは2部でも入賞者0という回が1998(平成10)年度から起こるようになった。駅伝強化に力を入れる大学が増え、長距離種目も入賞は難しいものとなった。短距離・フィールドも弱体化が進んだ。OBも長距離ブロックの出身が多いことから、箱根駅伝12年連続出場時代以来、長距離、駅伝の強化に力を入れ、特に1980年代頃からそれが顕著になった。1980年代後半から綱島というホームグラウンドの失った影響は短距離や練習場所としてのピットや投てき場を必要とするフィールド選手に影響がより大きく、1999(平成11)年度の段階で短距離部員が2名にまで減少した。学生数2万人を誇る総合大学として、陸上競技を愛好する学生がここまで少ないというのも異例な状況である。
このような苦戦続きの時期にあって、活躍を見せたのが、女子選手の活躍であった。本学で最初に関東インカレで入賞したのは1973(昭和48)年度の埴原麻子であるが、それから20年近くの後、本校に非常勤講師として赴任したの安井年文の指導によるものが大きい。1990年代初頭に高校の有力選手が入学し、短距離の熊田恭子や100mHの笹尾美代子、400mHの平野純子が関東インカレ、日本インカレの舞台で活躍した。熊田は関東インカレ200mを制し、笹尾は日本インカレ優勝1回を含む、3回の入賞を果たしている。他に長距離や投てきでも活躍を見せ、一時代を築いた。安井が母校へ再度研究に戻るとその系譜は絶たれたが、安井が1999(平成11)年度に今度は常勤の教員として本学に赴任することで、徐々に立て直しが進み、次代の短距離陣の大活躍の基礎を作っていくことになる。
1995(平成7)~2000(平成12)年度まで箱根駅伝予選会では20位以下か順位なしというどん底の状態となった本学中長距離ブロックであったが、その時期にあって1997(平成9)年度からは、OBの働きかけによりスポーツ推薦入試制度の整備が進み、、3名程度の実績のある選手が獲得できるようになった。1997(平成9)年度入学の初年度はトラブルもあったが、1998(平成10)年度入学者以降、これが軌道に乗り、2001(平成13)年度に各学年にメンバーが揃った。ここで前年までとは見違える走りで15位まで順位が上がった。翌年は17位であったが、この年度から設けられた関東学連選抜チームに佐藤良仁が選出され、3区10位で力走、27年ぶりに本学選手が箱根駅伝を走った。そして、2003(平成5)年度の第80回記念大会の予選会。この年度はチームワークと団結力が際立っており、一昨年度、昨年度の順位上昇、4枠増枠による可能性の拡大も手伝って、本気で箱根駅伝出場権を久しぶりに狙っていたチームであった。しかし、この年度は記念大会の一環として箱根町での開催、20kmのロードレースを行うにはあまりにも過酷なクロスカントリーコースのようなコースであった。それにより、一番起伏の激しい3.7km分が削除されるという異例の対応がなされた16.3kmの変則コースで行われた。本学の選手は起伏の激しいコースに苦戦、シード校が1校増えている中での昨年度と同じ17位は実質1つ順位を落とした結果に選手は悲嘆の涙に暮れた。出場権を逃して涙するというのは前回の記念大会、第70回大会以来なかったことであろう。
このような思いであったのも、来年度から強化指定部制になり、新しい監督を外部から迎え、岩﨑監督の体制で臨むのは最後であることも部員の中ではあったからであろう。
従来の限られた枠での入試制度、生活環境、指導体制では、過熱した箱根駅伝の本大会に出場することはできないという限界を感じさせる年でもあった。
長らく箱根駅伝の規定は出場校15校、シード校9校というのが1971(昭和46)年度の第48回大会からの伝統であった。これが改革されたのが2002(平成14)年度の第79回大会であった。出場チームを20として、単独出場校を19校、残り1チームを予選会で敗退した優秀選手で選抜チーム「関東学連選抜」を構成するというものであった。そして問題となったのが、残りの3枠(2002(平成14)年度のみ4枠)を5月に行われる関東インカレの成績をポイントに置き換え、時間に換算し、総合時間から減算するという選出方式であった。関東インカレ1部校の上位入賞校は当初5分程度の減算時間を得る事ができ、これは激戦化している出場権争いにおいて、決定的なタイム差をつけ、逆転が起き得る制度であった。
この背景には1986(昭和61)年度からのテレビ完全生放送実施により、駅伝・長距離選手のみを勧誘、育成し、短距離・フィールド種目を軽視する方針を取る大学が増え、トラック&フィールド全体を強化する関東インカレ1部校が箱根駅伝から姿を消す、または近い将来姿を消す可能性が迫っていたとう現実があった。そこでトラック&フィールド全体を強化している大学を優遇する選出方式が考え出されたのである。
とはいえ、一般的に考えて、教育の一環として、主に中学校、高等学校と陸上競技またはそれ以外のスポーツに取り組み、大学という教育機関で競技を続けている選手にとって、自分たちの競技成績以外の尺度で勝敗が入れ替わる制度、そしてスポーツ推薦入試を導入していない多くの大学ばかりがスタート時から大きなハンディキャップを背負わせている制度には当初から、そして2013(平成25)年度の廃止まで、反対意見は多かった。
実際に2002(平成14)年度の関東インカレ実施の際にそのような告知がなかったのにも関わらず、関東インカレ終了後に示された案に対して、この年度の本学主務であった今北普朗は明確に反対の立場を示し、他の反対派の大学をまとめ、関東学連に反対の活動を進めた。当時の代表者会議は反対派にとって非常に厳しい状況に置かれていたが、しっかりと反対意見を述べた。決議は非常に僅差での決着となったが、惜しくも原案を否決することはできなかった。しかし、ここまで僅差で反対意見をまとめることができるとは関東学連(を運営する一部の有力校)も考えていなかったことであると思われる。振り返れば、1924(大正13)年のパリ五輪での官学(現在の国公立校)優遇による私学の反対問題で、関東学連(当時は全国学生競技連合)からの脱退を訴えた学校もある中で、本学の坂入が学連の存続を訴えたという挿話からも、本学はいつも主流派に流されない意見を訴えてきた学校であった。
1994年度 平成6年度 |
関東インカレ2部は11位。 箱根駅伝予選会は15位。 東北学院戦は東北学大が勝利。 |
1995年度 平成7年度 |
関東インカレ2部は40位。わずか1点のみの獲得。 箱根駅伝予選会は21位。この頃から駅伝を強化する大学が増えてきたのと、本学の競技力低下が目立ち始め、他校に対抗することができなくなってきた。 東北学院戦は東北学大が勝利。 |
1996年度 平成8年度 |
関東インカレ2部は27位。 箱根駅伝予選会は23位。順位がついた中では歴代最低の順位となっている。 東北学院戦は東北学大が勝利。 |
1997年度 平成9年度 |
関東インカレ2部は28位。 箱根駅伝予選会は22位。 東北学院戦は東北学大が勝利。 |
1998年度 平成10年度 |
関東インカレ2部は無得点で順位なし。2部での無得点での順位なしは初。 日本インカレでは沖野剛久が10000mで4位となり、初の10000m入賞を果たした。 箱根駅伝予選会は22位。沖野は個人15位と快走。 三大戦(上柚木)が今年度の開催で終了。東北学院戦は東北学大が勝利。 |
1999年度 平成11年度 |
関東インカレ2部は2年連続で無得点・順位なし。 箱根駅伝予選会はこの年まであった計時制限時間(75分)以内のフィニッシュが9名で総合記録なし。 短距離の部員はわずか2名。まさにどん底の年であった。 東北学院戦は東北学大が勝利。 |
2000年度 平成12年度 |
関東インカレ2部は26位。巾崎圭一が800mで3位となり、3年ぶりの入賞であった。 昭和記念公園に会場を移した箱根駅伝予選会は20位。午後2時競技開始で気温が高く、コースも難易度が上がり、タイムは大幅に落ち込んだ。 東北学院戦(代々木)は東北学大が勝利。再び8連敗を喫した。 |
2001年度 平成13年度 |
関東インカレ2部22位。 箱根駅伝予選会は15位と大幅に順位を上げた。 東北学院戦は本学が9年ぶりに勝利。 7月25日緑が丘グラウンドが利用開始となったが、陸上競技場は設置されず。 |
2002年度 平成14年度 |
関東インカレ2部無得点で順位なし。 箱根駅伝予選会は17位、学内1位の佐藤良仁が関東学連選抜チームに選出され、3区10位と27年ぶりに本学選手が箱根路を疾走した。 東北学院戦は本学が勝利。1974(昭和49)年度以来の連勝であった。 |
2003年度 平成15年度 |
4月、相模原キャンパス開学、厚木キャンパスと世田谷キャンパスの学生が移転。 関東インカレ2部19位。 強化指定部制導入前最後の箱根駅伝予選会は箱根町での開催。16.3kmで争われ、起伏に富んだコースに苦戦。17位で終え、悲嘆に暮れた。 東北学院戦は東北学大が勝利。 |