青山学院大学陸上競技部の歴史

2015/11/10 更新

第5章 第2次隆盛期 箱根駅伝12年連続出場、関東インカレ5年連続1部校
  1963(昭和38)~1975(昭和50)年度

第1節 本学の黄金期到来

この時期は中距離の活躍と箱根駅伝で12年に渡り連続出場を果たしてきた黄金時代である。1960年代前半から中盤にかけて関東インカレで2部から昇格できずにいたが、中長距離の強化により、1部に5年連続で留まった。箱根駅伝では1963年に予選会に初挑戦、10位に留まったものの、翌1964年に予選会3位で箱根駅伝本大会出場権を獲得。予選会を突破しての出場および、戦後初の出場であった。2回目となる出場では14位に留まったものの、19年には総合7位、往路は5位で駆け上がる活躍を見せた。12回に渡り連続出場を果たすことができたが、1975年度の第52回大会ではフィニッシュまで後150mの地点で途中棄権。繋がらなかった襷は2008(平成20)年度、33年後の復活まで時を待つこととなる。関東インカレでは太田徹の大車輪の活躍で関東インカレ1部、日本インカレ、そして日本選手権をも制した。2年後に北野勉が日本インカレ800m優勝、鹿も400mで日本インカレを制している。関東インカレ1部、日本インカレの入賞もこの時期に多く成し遂げられた。

第2節 岩﨑省三の尽力により戦後初・大学初の箱根駅伝出場へ

戦後の本学は、大学開学後、関東インカレ1部昇格と2部降格を繰り返す位置まで存在感を高めてきたが、長距離、駅伝については、箱根駅伝出場、同予選会への挑戦はなかった。特に第32回大会までは予選会は行われておらず、ある程度の人数の選手が集まっていれば出場が可能であったのにも関わらず、出場の記録はない。そこに挑戦したのが岩﨑省三であった。戦後初の箱根駅伝出場は岩﨑によってもたらされた所が大きい。バイタリティに溢れ、行動力のあった岩﨑は中距離はもちろんのこと、短距離、フィールドの選手、果てはホッケーなどの他のスポーツの選手までも声をかけ、選手集めに奔走した。そして、猛練習で選手を鍛え、1963(昭和38)年、箱根駅伝予選会に出場、10位だったものの、翌1964(昭和39)年に3位で予選会通過、本大会出場を果たした。岩崎はエース区間・花の2区を担当し、区間7位の活躍を見せた。これは第86回大会の米澤類が区間5位と上回るまで2区の区間最高順位であった。岩﨑によって開かれた箱根駅伝への道は12年連続出場へと結びつき、その後の優秀な選手勧誘にも力を尽くした功労者である。しかし、この後、本学は長距離・駅伝偏重が強くなり、短距離・フィールドへの強化、支援が軽視されがちになった面もある。

第3節 本学史上最高の選手、太田徹

800mを専門とする太田徹は岩﨑の熱心な勧誘により、本学への門を叩いた。入学時から関東インカレ2部で800m、1500m3連覇の後、4年では1部でも800m、1500mの2冠達成。日本インカレも800m、1500mで3年2位、4年で2種目優勝を果たし、日本選手権でも2種目優勝している。在学中に日本選手権を制しているのは1922(大正13)年・800mの坂入と太田のみである。五ヶ国対抗では1分49秒0の日本学生新記録を打ち立てた。いずれも800mであるのが、中距離を得意とする本学の伝統であろう。箱根駅伝にも挑戦し、第44回大会で1区4位という好成績を収めている。朗らかな人柄で多くの人から愛された選手である。東京海上(現・東京海上日動)でもフルタイム勤務の中、競技を続け、日本選手権をさらに2度制しており、1974(昭和49)年にはテヘランで行われたアジア大会代表として6位となっている。本学出身者で2度以上の日本選手権優勝を果たしているのは太田だけである。まさに本学史上最高の選手である。

第4節  わが部のグラウンドの変遷 戦後編

戦時中に畑とされて、手放した多摩川沿いのグラウンド以降、1951(昭和26)年に世田谷区・桜新町に待望の新グラウンドが完成した。しかし、このグラウンドの使用は短期間に留まり、1961(昭和36)年から横浜市・綱島に綱島総合グラウンドが利用開始となった。陸上競技場は日本陸連の第3種公認を受ける格式高い競技場であった。クラブハウスの「マクレイハウス」も整備されており、練習の拠点となった。東北学院戦の本学開催時には会場となった。しかし、この土のグラウンドが定期的な改修が必要であったが、これが1970年代後半頃から十分になされず、荒れた状態になっていった。1978(昭和53)年に日本陸連第3種公認が失効し、練習するには危険な状況になっていった。OBの尽力で工事車両を入れて整備を試みたりといった自助努力も行われていたようであるが、決定的な整備には至らなかった。このような ①大学からの十分な整備がなかったこと、 ②箱根駅伝予選会に出場できないほど部員が減少し、部の活動が下火になっていたこと、 ③綱島には野球場、ラグビー場、サッカー場(陸上競技場のフィールドと兼用)は整備されていたものの、アメリカンフットボール部が専用グラウンドはなく、それを望んでいたこと などが複合的に要因となって、1980年代後半から、陸上競技部は綱島から足が遠のき始め、1990年代には陸上の練習は綱島では行われなくなった。これは当時の部員達は荒れた綱島よりも青山キャンパス近くの織田フィールド(代々木)や大和の全天候型陸上競技場を使用することを望んだからと思われる。これにより、綱島での陸上競技部の使用権利はほぼ失った。この事は2001(平成23)年7月25日に綱島から相模原市の緑が丘グラウンドに移転した際にも、陸上競技部はその使用実態から陸上競技場が設置されなかった。

年表

1963年度
昭和38年度
関東インカレ2部3位。

4月24日三大戦は本学優勝。東北学院戦は本学が勝利。東京十大学対校戦実施。

箱根駅伝予選会初参加。10位で落選。



1964年度
昭和39年度
関東インカレ2部3位。

東北学院戦は本学勝利。5月17日第8回東京十大学対校戦(東大・駒場)は総合6位。6月7日三大戦は本学優勝。

箱根駅伝予選会3位で本大会出場権獲得。

箱根駅伝は総合14位。区間記録は13~15位にとどまる中、2区岩﨑(省)が区間7位とエース区間で健闘。



1965年度
昭和40年度
関東インカレ2部4位。

5月23日三大戦は本学優勝。東北学院戦は東北学大が勝利。東京十大学対校戦は総合4位。

箱根駅伝予選会は3位で予選通過。本大会は13位。



1966年度
昭和41年度
関東インカレ2部4位。

5月5日三大戦(駒場)は本学優勝。東北学院戦は本学が勝利。第10回を迎えた東京十大学対校戦は4位。

箱根駅伝予選会は3位で予選通過。本大会は14位。



1967年度
昭和42年度
関東インカレ2部3位。

日本インカレで太田徹が1500mで5位。

5月3日三大戦は本学優勝。東北学院戦は引き分け。

箱根駅伝予選会は2位で予選通過。本大会は1区服部が区間7位で波に乗り、往路7位。復路も8位で走破し、過去最高位7位でシード権獲得。



1968年度
昭和43年度
関東インカレ2部2位で1部昇格。

日本インカレでは太田徹が800m、1500mとも2位。

日本選手権で太田が800m5位、1500m3位。4x400mRで3位。

4月21日三大戦は本学優勝。東北学院戦は東北学大が勝利。

箱根駅伝予選会はシードされ、本大会は1区太田が8位で好スタートの後、往路は4名が一桁順位、2区服部もエース区間を12位で走り、5区岩崎(憲)が区間6位で箱根の山を登り切り、往路最高位5位。復路は順位を落とし9位となったものの2年連続のシード権獲得。



1969年度
昭和44年度
関東インカレ1部で10位で戦後最高位。太田徹が800m、1500mで2種目優勝。

日本インカレで太田が800m、1500mで優勝。

日本選手権で太田が800m、1500mの2種目優勝を飾った。在校中、卒業後も含めての日本選手権優勝は坂入虎四郎以来、47年ぶり。2種目制覇は太田ただ一人である。

五ヶ国対抗で太田が1分49秒0の日本学生新記録樹立。

三大戦は学生運動の激化から中止。東北学院戦は東北学大勝利。

11月21日~23日、現在は行われておらず幻ともいえる、伊勢、出雲以外の全国規模駅伝(伊勢の全日本大学駅伝開始以前)である大学選抜能登半島一周駅伝に出場、3日間の競技で、18時間45分58秒で4位となった。

箱根駅伝は1区太田が区間4位と絶好のスタート、往路10位でシード権圏内(当時は10校)につけるが、復路は順位を落とし総合12位。シード権を失う。



1970年度
昭和45年度
関東インカレ1部12位。

9月13日三大戦(駒場)。東北学院戦は東北学大が勝利。

箱根駅伝予選会は歴代唯一のトップ通過。本大会は12位でシード権獲得ならず。



1971年度
昭和46年度
関東インカレ1部12位。

日本インカレで北野勉が800m優勝。1500mでも3位。

東北学院戦は本学が勝利。

箱根駅伝予選会は3位で通過。本大会は5区尾花が箱根の山を区間7位で登り、10位まで押し上げるが総合13位。



1972年度
昭和47年度
関東インカレ1部11位。

日本インカレで鹿孝次郎が400m4位。

東北学院戦は本学が勝利。

箱根駅伝予選会は6位と最下位通過で薄氷を踏む。本大会はスタートで出遅れ、往路は14位。復路で一つ順位を上げ、総合13位。



1973年度
昭和48年度
関東インカレ1部15位で2部降格。鹿孝次郎が男子400m優勝。200mも4位。女子400mで埴原麻子が本学女子初の関東インカレ入賞。

日本インカレで鹿が400m優勝。200mも6位。

東北学院戦は本学が勝利。

箱根駅伝予選会は4位で通過。本大会は第50回記念大会で20校参加の中、1区青木(国)が9位と好スタートを切るも総合は20校中14位であった。過去の優勝校枠で出場した3大学には勝利することができた。



1974年度
昭和49年度
関東インカレ2部1位で1部昇格。

日本インカレで南原茂が800m6位。

東北学院戦は本学が勝利。

箱根駅伝予選会は5位で通過。本大会は全員が区間2桁で総合14位。



1975年度
昭和50年度
関東インカレ1部15位で2部降格。

日本インカレで勝山育雄が5位。

東北学院戦は東北学大が勝利。

箱根駅伝予選会は5位で通過、本大会は往路を12位で終え、6区多田が区間3位の快走で箱根の山を駆け下り、9区終了時点で11位につけたが、10区杉崎が残り150mの地点で倒れ、途中棄権。



トップページへ戻る