2015/11/10 更新
1929(昭和4)年、本学と同じキリスト教プロテスタント・メソジスト派のミッションスクールである東北・仙台の東北学院との定期戦が開始された。第1回大会は1929(昭和4)年10月26日、東北帝国大学法文学部トラックで開催された。そして、世紀を跨いで、21世紀の現在に至るまで、中止、戦争の動乱、そして21世紀では記録に新しい東日本大震災などで、中止、中断の憂き目にはあっているものの、戦前は12年間で7回(他に中止2回。)、戦後の新制へと切り替わった1949(昭和24)年の1回を経て、1950(昭和25)年に大学総合定期戦となり、2011(平成23)年の東日本大震災での中止以外、途切れることなく続いている伝統の戦いである。
関東インカレでは、大学と高等学校(旧制)、専門学校が同じ条件、区分けの下に競技を行っていた。高等学校、専門学校を経て大学へと進学する関係であるので、学齢に差があり、本学のような専門学校の不利は否めず、上位校の顔ぶれがほぼ大学で固定化されていくにつれ、本学は苦戦を強いるようになる。関東学連は1928(昭和3)年より2部制、1938(昭和13)年より3部制を導入し、校種に関係なく、単純な実力主義による区分けを行った。この理由として、1部校と2部上位校以外の学校はインターカレッジの精神から遠ざかっているというのである。しかし、本来、大学と高等学校、専門学校では学齢が異なるのだから、レベル差があるのは当然である。それをインカレの精神を解していないと断定し、多部制で区別するのはどうであろうか。旧制インターハイ(高等学校選手権)で活躍し、何度も優勝を遂げた伝統校の学習院(正確には学習院は高等学校ではないのだが、高等学校とほぼ同様の学校制度であった。)も、関東インカレにおいては3部に所属していたことから、単なる実力不足ということではなく、制度上の年齢の違いから出ている差なのではないか。
現在、関東インカレは再び3部制が導入されている。この3部は大学院、専攻科の部である。大学院生は2003(平成15)年度までは学部生と同じ扱いであったが、大学院生を多く抱えるチームが有利になるということか、2004(平成16)年度から別チーム登録になった。そうすると、今度は単独の大学院チームが1部へ昇格し、従来1部常連であった学部生チームが2部へ弾き出されることになり、2008(平成20)年度から、3部(大学院、専攻科の部)として同じ土俵の上で戦うことのない別の扱いとした。
まず、昭和初期においても多部制を導入するのであれば、、平成期の改革のように、大学の部(1部)と高等学校・専門学校の部(2部)による2部制を導入すべきではなかったか。これであれば、同じ条件の校種で戦うことができる。実際、2部4位となった1935(昭和10)年・第17回大会の結果を伝える「青山学報」の記事では、専門学校の中では1位であったと評価している。すでに大学との実力差を認めつつ、専門学校内では最上位であることを前向きに捉えているのである。また、1937(昭和12)年には第1回目の関東地区での「高専大会」(高等学校・専門学校による関東地区の競技会)が行われ、ここでも本学は3位に食い込んでいる。この大会の変遷は未詳であるが、昭和10年代には高等学校・専門学校内の競技会が開かれているのである。
ところで、校種別に分ける平成期の改革も、1部の上位校が大学院チームの脅威から降格の危機を回避するために導入された制度改革であるといえる。あらためて、このような部制の歴史を見ると、制度が1部の上位校の視点で定められていることが感じられる。昭和初期は上位校から実力が大きく劣る、インカレ精神の欠如といって軽視して多部制で区別し、平成期は上位校が降格危機になるので大学院チームを疎外しているのを考えると、時代を経ても、上位校中心の視点が制度に大きく影響していると思われる。それの最たる例が箱根駅伝の関東インカレポイント制(2002(平成14)~2012(平成24)年度まで実施)ではないか。
昭和初期は、上記のように大学本科とはレベル差があり、主に専門学校、高等学校、大学予科との対校戦を実施して、交流を深めた。先述の東北学院との定期戦が開始されたのもこの時期である。なお、戦局が激しさを増す1938(昭和13)年以降、終戦の混乱期まで、本学の資料に本学陸上競技部や学友会の活動については記載が極端に少なくなっている。
その1938(昭和13)年から関東インカレは3部制の導入に際し、1937(昭和12)年の2部での11位以下は3部へ降格した。本学は過去9年間で11位以下は1回のみであったが、1937(昭和12)年の第19回大会で12位となり、3部へ降格。1938(昭和13)年の第20回では3部においても5位以内に入れず、低迷した。その後3部での戦いが続いたが1942(昭和17)年度のシーズンは3部で優勝と気を吐き、翌年度の2部昇格の権利を得るが、戦局の悪化で関東インカレが翌年度行われず、この権利は行使されることがなかった。
3部優勝から年の明けた1943(昭和18)年1月、第22回箱根駅伝(靖国神社、箱根神社往復)に初出場を果たす。新しい挑戦をしようという思いからの出場であったと当時のメンバーの証言が伝わっており、この年度の勢いが感じられる。結果は最下位(11位)に終わるものの、後世の箱根駅伝においても、本学の長い伝統を示す大きな足跡となった。
その太平洋戦争の戦局悪化に伴い、終戦を迎えるまで、本学を含む関東学生陸上競技界は競技会の休止を余儀なくされる。本学は文系の学問を行っていた専門部は1943(昭和18)年度をもって明治学院と合併されることとなる。1944(昭和19)年度から理工系の工業専門学校が設置されて終戦を迎えた。
明治期の運動会時代、創部草創期では、現在の大学の北側敷地にあったグラウンドで、野球部の練習後に各自が思い思いに練習していた。また、現在の間島記念館から正門までダッシュ練習も行われていた。また大正期では近隣の駒場の東京帝大農学部実科や東京農大、青山師範学校のグラウンドを使わせて頂いたりしていた。その縁で第2回関東インカレが東大農学部実科グラウンド(駒場)で開催され、東京農大が初出場した際には、本学が補助員として参加し運営に協力した。そして昭和期に入り、1934(昭和9)年6月7日に、待望のグラウンドが設置された。現在の東急東横線と多摩川が交わる所と多摩川大橋の中間に位置した「多摩川グランド」である。戦前第5回の東北学院定期戦で使用されている。そのホームグラウンドを得て、昭和10年代の戦争の激化する時期で上向きの結果を残した。1942(昭和17)年の第24回関東インカレでの3部優勝の要因でもあると考えられる。しかし、戦時中は畑とされ、戦後、東京急行に返却され、野球場となった。
年表
1928年度 昭和3年度 |
関東インカレは2部8位。 6月2日 OB対フレッシュメン戦(新入生とOBとの競技会) 29対16でOBの勝利 6月19日 浦和高との対校戦 28.5対28.5で引分 11月11日 名古屋高商との対校戦 45対12で本学勝利 |
1929年度 昭和4年度 |
関東インカレは2部7位。 6月1日 第3回OB対現役戦 32.5対17.5で現役勝利 6月9日 慈恵医大との対校戦 32対19で本学勝利 10月17日 第4回OB対現役戦 30.5対20.5で現役勝利 10月26日 現在も継続されている対東北学院定期戦の第1回大会が仙台、東北帝国大学法文学部トラックにて開催される。37.6対13.3で本学勝利 浦和高との対校戦はこの年度も開催されたと考えられるが、記録はない。 |
1930年度 昭和5年度 |
関東インカレは2部12位 6月7日 浦和高との対校戦(第3回となっている) 32対25で本学勝利 10月4日 第2回対東北学院定期戦(学習院グラウンド) 30.5対26.5で本学勝利 11月15日 第5回OB対現役戦 18対15で現役勝利 |
1931年度 昭和6年度 |
関東インカレは2部6位。 10月15日 対立教大予科との対校戦 24対34で立教大予科勝利 10月24日 対成城高との対校戦 33.5対32.5で本学勝利 この年の第3回東北学院定期戦は東北学院での学生ストライキの影響などで中止。 |
1932年度 昭和7年度 |
関東インカレは2部6位。 6月10日 國學院大・東京農大との対校戦 1位 東京農大 89点 2位 本学 65点 3位 國學院大 43点 第3回東北学院定期戦はこの年に延期されて実施。本学勝利。 |
1933年度 昭和8年度 |
関東インカレは2部4位。 10月17日 第4回東北学院定期戦(学習院グラウンド) 47.5対8.5で本学勝利 |
1934年度 昭和9年度 |
関東インカレは2部9位。 6月7日 多摩川グランド利用開始 國學院大・東京農大との対校戦(常盤松三校競技会) 1位 東京農大 88点 2位 本学 69.5点 3位 國學院大 43点 第1回同志社大との対校戦 同志社大の勝利 |
1935年度 昭和10年度 |
関東インカレは2部4位。 5月29日 横浜専門との対校戦 52対63で 横浜専門の勝利 10月17日 第5回東北学院定期戦(本学多摩川グラウンド) 31対20で本学勝利 10月21日 第2回同志社大との対校戦 33と6分の1対29と6分の1で本学勝利 |
1936年度 昭和11年度 |
関東インカレは2部7位。 第2回横浜専門の対校戦 横浜専門の勝利 第6回東北学院定期戦(東北帝大グラウンド) 24対27で 東北学院の勝利 |
1937年度 昭和12年度 |
関東インカレは2部12位で3部降格。 5月22日 立教大予科・明治学院との対校戦 1位 立教大予科 83.5点 2位 本学 63点 3位 明治学院 51.5点 11月13、14日 第1回高等学校専門学校大会 16校中3位 35点 10月23日に予定されていた第7回東北学院定期戦は中止。 |
1938年度 昭和13年度 |
関東インカレは3部で6位以下、出場はしている(プログラムに本学選手の記載あり)。 第7回東北学院定期戦 東北学院の勝利 |
1939年度 昭和14年度 |
関東インカレは3部7位。 |
1940年度 昭和15年度 |
関東インカレは3部3位 第8回東北学院定期戦 本学勝利 |
1941年度 昭和16年度 |
関東インカレは3部2位。 |
1942年度 昭和17年度 |
関東インカレは3部優勝で翌年度の2部昇格権獲得。しかし大会は1946(昭和21)年度で復活するまで中止となり、この第25回関東インカレは2部制は取らず、本学も不出場で、結果としてこの権利は行使されなかった。 1月6、7日 第22回箱根駅伝に出場 往路11位 復路11位 総合11位 |
1944年度 昭和19年度 |
本学専門部は明治学院に合併し、青山学院工業専門学校を設置。 |